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75年前の記憶~引揚港仙崎で看護にあたった女性の証言から~

<外部リンク> 印刷用ページを表示する 掲載日:2020年11月9日更新
当時の写真を見て懐かしむ渡辺さん

当時の写真を見て懐かしむ渡辺さん
今まで人に話すことはなかったが、企画展や新聞での記事をきっかけに話す気になったとのこと
極楽寺では11人の看護師が炊事などを分担して行っていた

 11月9日(月曜日)、終戦後、引揚港として多くの人が往来した仙崎で、看護師として引揚者の救護に当たった渡辺信子さんが、引揚企画展『「75年前の仙崎」~引揚って何? 忘れてはいけない記憶~』を開催中のながと歴史民俗資料室を訪問し、当時の様子を語りました。

 渡辺さんは周東町(現在の岩国市)出身で、日本赤十字病院の看護学校で看護学を学び、昭和20年11月に日本赤十字社から派遣されて仙崎に入りました。当時18歳でした。仙崎では極楽寺を拠点に、朝鮮半島からの引揚者のうち、主に軽症者の看護を担当しました。渡辺さんら看護師は、深川湾の沖合に停泊する引揚船「興安丸」に乗り込み、体調のすぐれない人を見つけては水枕をあてるなどの介抱を行いました。そして、患者といっしょに小型の船舶に乗り換え、極楽寺において回復するまで見守ったということです。

 渡辺さんが仙崎に滞在したのは昭和21年1月までのわずか3カ月でしたが、激動の時代のできごとを今でも鮮明に覚えています。仙崎の人たちが懸命におもてなしをしていたこと、地域の人にとてもやさしくしてもらったこと、休みの日には近くの映画館に行ったことなどが記憶にありますが、なかには、極楽寺で回復を待つ患者から朝鮮半島での暴行や略奪などの悲惨なできごとについて聞いたことは、今思い出しても胸が痛くなるそうです。

 一番の思い出は、興安丸で引揚げてきた男の子が、仙崎に上陸する前に「日本に帰ってきたぞ」と大きな声で叫んだことで、小型船舶で興安丸に向かう際に見た、興安丸の小さな窓から多くの人が顔を出していた様子も強く印象に残っています。

 渡辺さんは仙崎の次は広島県の大竹で看護業務にあたり、大阪での勤務を経て豊田町(現在の下関市)で長く看護師として働き、92歳になった現在も下関市豊田町にお住まいです。

 渡辺さんは企画展を鑑賞後、当時住み込みで看護にあたった仙崎の極楽寺を75年ぶりに訪問し、当時を懐かしんでいました。引揚企画展『「75年前の仙崎」~引揚って何? 忘れてはいけない記憶~』は11月15日まで、ながと歴史民俗資料館で開催中です。また、長門市広報「知っちょこ」11月号において「引揚港仙崎」を特集していますのでご覧ください。