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村田清風旧宅及び墓

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0023654 更新日:2023年4月29日更新 印刷ページ表示

国指定 史跡

昭和16年8月1日指定

 村田清風旧宅は、清風が生まれてから19歳までと晩年63歳より73歳で病死するまで過ごした家。母屋は(かや)(ぶき)、敷地内には、(もみ)貯蔵庫、(うまや)、井戸、()殿(どの)や教育の場であった(そん)聖堂(せいどう)、清風松を見ることができる。

 清風は天明3年(1783)に三隅の沢江で萩藩の中級武士の家に長男として生まれる。藩財政が非常事態に陥っていた天保9年(1838)、藩主毛利(たか)(ちか)から財政の立て直しの責任者として抜擢され改革(天保の改革)を実行した。「四白政策」を行い産業振興にも力を入れた。しかし、家臣の借金返済を救済する政策(三十七カ年皆済(かいさい)仕法(しほう))が商人の不満を招き、弘化2年(1845)に三隅へ隠居する。その後は、(そん)聖堂(せいどう)にて子村田清風旧宅村田清風墓弟の教育をはじめ、周布正之助や吉田松陰にも影響を与えた。また、嘉永2年(1848)からは明倫館再建のため力をそそいだ。安政2年(1855)73歳で亡くなった。墓は沢江の大歳山にある。(出典『清風読本』ほか)

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