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近松長州説を考える

<外部リンク> 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日更新

金子みすゞ

 

利重 忠
山口県地方史学会会員
長門市郷土文化研究会会員

出典:「長門の近松」長門市教育委員会編
平成7年3月1日発行

1、はじめに

近松門左衛門 近松門左衛門といえば、江戸時代中期の浄瑠璃作家で、ほかに狂言作家とか戯作者などと書いたものもある。現在風にいえば芝居(演劇)の脚本作家なのである。彼の作品の大半は、封建社会に生きる人々が義理人情のしがらみに苦悩する生きざまを書いた世話ものが多く、その作品は200編に近いといわれているが、それはまた、長く人々の心をとらえている。
 現在は世界的にも有名で、東洋のシェークスピアともいわれ、アメリカの文学者ドナルド・キーン氏も熱心な近松ファンでありまた、研究者でもある。近松は、武家出身で本名は杉森信盛である。ほかに平安堂、巣林子、不移山人、散人不移子などの号(ペンネーム)がある。このことは、彼自身が書き残していることでもあるが、出身地については、田舎育ちといっているだけで具体的な場所を明かしていない。こうしたことから明治時代までは、三河(愛知県)、越前(福井県)、近江(滋賀県)、山城(京都府)、出雲(島根県)、長州(山ロ県)、肥前(佐賀県)などがあげられた。長州の場合はさらに、萩、深川、豊田、内日、吉敷など、五つの場所があげられている。

 しかし、実際には、文政4年(1821)ごろ、長州と越前の両説はかなり有力視されていた。そうして、明治、大正時代までは長州説が定説となっていた。これが近松長州説である。その後、越前説の研究が進み、これが定説化し現在に至っている。

 筆者は、昭和62年、郷土史家羽仁雅助先生の近松研究のお手伝いをさせていただいた機縁で、平成元年「長門深川の近松伝承」と題して簡単なまとめをしたことがある。この時、やがて長州説は消え失せるかもしれないと内心は思っていた。ところが、平成6年2月、福井県鯖江市や、兵庫県尼崎市など近松ゆかりの地を訪ねる機会を得て、越前説に対する理解を一段と深めることができた。その結果「長州説は消えず」という思いを強くした次第である。

 長門市(※旧長門市)は平成6年、市制40周年記念行事で、地元の近松伝承にちなんで「近松祭in長門」ということでいろいろなイベントを計画実施した。これは行政サイドで長州説、とりわけ深川説を強調しようしたのではなく、歴史的なロマンの花を咲かせ伝承の街、長門を広く知ってもらおうという願いがこめられているのである。

 ついでながらこの機会に近松長州説のおこりや、各地の史家たちが今までこの伝承に取り組んできた足跡などをふり返ってみたいと思う。また現在、近松門左衛門の生国は越前であるとするのが正当だとされているが、それでも長州説は今なお根づよく生きづいている。その背景をいま少し掘り下げてみることにしよう。

 

2、長州説のおこり

 近松門左衛門(杉森信盛)は、長州(山口県)の出身であるというのが長州説である。この説の直接の根拠は、文政四年(1821)大田南畝(1749-1823)が大阪で書いた碑文である。彼は、蜀山人と号し、寛政年間幕府の政治改革(寛政の改革)の時、老中松平定信のもとで役人として活躍している。また、当時の文学界の重鎮でもあった。文政のころ、浄瑠璃好きで近松の熱狂的なファンでもあった大阪の野里梅園という好事家が、この南畝に依頼して碑文を書かせたといわれている。この碑文は、結果的には石碑の建立までには至らなかったが、202年後の大正11年、法妙寺の墓地にこの墓硯が建立された。これは当時の住職と篤志家たちの手によって建立されたものである。碑文はその後、多くの人々に影響を与えたようである。そのことは後で述べるが、この碑文には重大なポイントが二つあると思う。

 その1は、「長門萩の人」の語句が示すように、近松は長州生まれと決めつけていることである。その2は、越前とかかわりのある岡本一抱子の名前がでているということである。杉森氏は、岡本氏と親族関係にあったから南畝や梅園は、椙杜氏も越前に関係があると考えたのであろう。充分に究明することもなく、長州説に越前説をくっつけた感がある。当時、京都や大阪では、近松の出身地について長州だとか越前だとかの噂が乱れとんでいたからであろう。

 越前藩の正史には岡本氏の名は出ているが、杉森氏の名は出てこないといわれる。杉森氏の名が出てくるのは弘化2年(1845)に書かれた「続片聾記」だけである。これに対し、長州藩の正史では、椙杜氏の名はたびたび出てくる。南畝はこの事実を知っていたはずであるから長州に重きをおいたとも考えられる。

 それでは、そのころどうして長州説が京都や大阪に流れていたのであろうか。この謎を解く鍵として筆者は先日(平成6年4月20日)、豊浦郡豊田町西市の郷土史家で文化財審議委員として、今なお活躍中の中野盛紀さん(87歳)にお会いして、つぎのような話を聞くことができた。

 「私の父方の祖父は、弘化2年(1845)生まれで浮石の人ですが、少年時代よくこの祖父から近松の話を聞いたものです。浮石地区は、長府藩家老椙杜氏の知行地で、椙杜元峰が当主であったころ、椙杜家は、3,100石の家禄を持っていただけに、50人前後の陪臣を抱えており、その幾人かは浮石にも住んでいたらしい。その武士や百姓たちの間では、椙杜様の御身内の者が、上方で芝居者になって活躍しているとの噂話がもちきりであった。誇り高い元蜂は、これを耳にしても無視していたが、不機嫌そうであった。と、私に話してくれたことを今でも覚えています」

 この話に出てくる元蜂は広品の嫡男である。広品が近松の父とする説からみれば、元蜂の兄が近松ということになる。元蜂の家老在職期間は、天和3年(1683)から享保5年(1720)までであるから、この間は丁度、近松が京都、大阪で活躍していた時でもあった。それからまた、こんな話も伝えられている。幕末から明治期にかけても、この地区で「国選爺合戦」などの浄瑠璃芝居がある時、地区の人々は「この芝居はこのちかくの神上寺で育った人がつくったものじやげな」と、いいながら芝居を観に行ったといわれている。

 ところで、京都や大阪には各藩の藩邸や蔵屋敷などがある。そこには各藩の武士が常駐しているが、たびたび交代をし、商人の往来もあったらしい。このような事情から、上方の様子や遠い地方の様子が話題となり、豊田の伝説が上方に流れるのは不思議ではないと思えば謎は解けるのである。ともあれ、南畝の碑文以後、長州説は次第に有力となり定説化していったのである。つぎにもう一つ長州説に関連した有名な墓碑文がある。これは肥前(佐賀県)唐津の 近松寺にある近松の帰葬基といわれる墓石の台石に刻まれた碑文である。現在その台石はないが、その文字を拓本にとったものがある。この碑文の冒頭に「印海祖門上座者長門深川之人也・・・」があり、これが大津郡深川(長門市)の地を有名にしたのである。

 この碑文のことは、森鴎外の「小倉日記』でも紹介されている。鴎外が小倉の陸軍病院長であった明治24年ごろ、唐津の近松寺を訪れ近松の基を拝んでいる。その時見聞したことを日記にしているが、別に論評らしきものは書いていない。ところで、この信憑性については大きな問題がある。建立の日付けが享保10年(1725)となっており、少なくとも明治34年(1901)までに176年が経過している。写真でみる拓本の文字は風雨による損傷はほとんどなく、それほどの年月の経過を感じさせない。このことから、台石の陰刻は非常に新しいものとされている。唐津の史家たちはこれについてつぎのように説明している。

 明治初期、廃仏毀釈によりどこの寺も維持管理に苦心した。近松寺もそのため、境内の一部を売却したといわれている。当時の住職寺沢大典師は、杵鳥炭鉱の経宮者で富豪の高取伊好と結び、観光事業的なものにのり出したという。印海祖門上座(近松)の画像が描かれたり、近松の帰葬墓が造営されたりしたのがそのあらわれではないかという。それを裏づけるかのように大正時代には、近松寺境内の絵はがきがつくられ販売されている。深川でも次のような手紙が発見されている。

  欽復上
  時下迫日秋冷相催侯處伏性
  閣下未得拝顔候得共滋御安康奉大賀侯
  却説御照曾二接シ近松巣林子略傳一巻
  弊寺境内繪葉書一組御送附申
  上候條御落掌披成降度敬具

      佐賀縣東松浦郡唐津町近松寺住職 寺澤 大典 印

      大正拾年十月二十九日

      山口縣大津郡立大津高等女学校長
      森脇俊作殿

 このように近松寺の絵はがきが方々に売り出され、近松の帰葬墓が一躍有名になったのは確かである。しかし、このようなことから碑文の信憑性が疑われているが、碑文の内容まで疑うべきかどうか問題であろう。南畝の碑文にも、唐津近松寺のことが書かれていることを考えれば当然のことである。したがって、陰刻は新しくとも(明治期に造られたとしても)碑文の内容は古くから当寺に伝えられていたかも知れないのである。

 以上、2つの碑文について述べたが、これらが近松長州説の直接の根拠となっていることはすでに述べた。しかし、実際には大田南畝が碑文を書いた文政4年以前に、長州説はすでに上方で流布されていたことは確実と思われる。

 また、享和元年(1801)に書かれた「戯財録」には近松のことが書かれている。これは、演劇について書かれた随筆で作者は判然としないが、近松が少年時代を肥前唐津の近松寺で学んだことを書いている。南畝も例の碑文を書く以前にこの「戯財録」をよみ、参考にしたかもしれない。

 

3、長州説の推移

(1)後裔争いと長州

 近松の死後しばらくして、その後裔(子孫)はわからなくなっている。このことから、われこそが近松の血縁につながる者だ、と自称するものが続出した。近松の名声にあやかりたい、また、それをわが誇りにしたいというような心情もあったであろう。主な目的はなんらかの経済的利益がねらいではなかっただろうか。

 浄瑠璃芝居の興業では座元(興業主)の儲けはかなりのものであったらしい。興業権という制度上確立されたものはなかったにしても、原作者近松の子孫という者がかかわってくればなんらかの手当をしたのではなかろうか。また、出版業界の活躍もめざましいものがあり、書店の株仲間(同業者の組合)などもできていた、というから、多くの本が売られていたことであろう。井原西鶴の作品などはもとより、近松の作品もかなり売れたことであろう。原作者の著作権を守る制度はまだ出来てはいないが、この場合もやはり何らかの手当はしたのかもしれない。 「京摂戯作者考」によれば、次のようなことがでている。

  江戸本柳島妙見菩薩境内在石碑如左
  日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖
  近松門左衛門藤原信盛文碑
  曾祖近松門左衛門信盛長州萩之藩臣
          杉森某男也・・・
       文政十一年
               曾孫 近松春翠軒繊月

 これは、近松の曾孫と自称するものの告知文のようなものであるが、彼は近松を長州の出身としているのが面白い。また、天保年間に大阪では、近松の曾孫と自称する近松門三郎という人物が現れている。このような動きの背景には、名誉心と共に何らかの経済的利益を得ようとする考えがあったからであろう。

 これについて園田学園女子大学近松研究所長の棚町知弥先生は否定的であったが、早稲田大学の鳥越文蔵先生や、龍谷大学の土井順一先生は明確な史料がないので断言はできないが、何らかの経済的利益(手当)が与えられていたことは考えられる、と述べられている。筆者は、「近松の後裔」を自称する人たちにとっては、名声や名誉心も動機になろうが、経済的利益こそが主な目的ではなかったかと思う。

 これが明治時代になると、欧米の法律制度の影響をうけて、これらの諸権利を保護しようとする動きがおこってきた。「戯曲小説近世作家大観」によると、明治期に巣林子(近松)をかっぎまわる者が多く出たと書いているが、このことを示しているのである。

 明治政府は、四民平等政策によって家禄を失った士族たちには明治九年、金緑公債を与えた。別に職業を持たない士族たちは、これを食い潰していくだけの生活で大変苦しかった。こうした状況の中で巣林子がつぎ出されたのである。近松の血縁につながる者と自称する人たちが興行権や著作権を確認する運動を行うことになるのである。

 明治21年、大津郡深川江良の在住、椙杜親介が、近松の「絶家再興の届書」を書いている。彼は、唐津近松寺の寺沢大典氏と共に大阪に行き、運動をしたことは有名である。この時すでに大阪には、やはり近松の子孫と自称する近松常子がいた。両者の間にトラブルもおこったらしいが、近松常子も山口県に関係があるとのことで和解したらしい。椙杜親介は絶家再興を果たし得なかったが、近松長州説の宣伝効果はあったらしい。

 ついでながら、越前杉森氏についてもふれておこう。本家筋の杉森氏は現在13代唯智氏(福井県加賀市在住)であるが、同氏のもとには3部の家系譜(旧家系譜1部、新家系譜2部)や多くの親類書が保存されている。

 これらのうち旧家系譜は、8代義高、9代義次の時、親類書や岡本家の資料をもとに調整されたものである。さらに10代信勝、11代信忠のときには、時代も明治であるだけに、近松についてかなり知識をもったこの両人が家系譜を再調整している。これが2部の新家系譜である。

 いうまでもなく、これらの家系譜が近松に関するかぎり立証資料とならないことは、学者たちの一致した見方である。いずれにしても、このように家系譜を調整する動きは、「われこそは近松の血縁につながるものであ る」ことを、主張するためになされたものと見るべきであろう。

 

(2)長州説の浮沈

 明治末期から大正期にかけては、長州説はほぼ定説化した感があった。当時の文学者、塚越芳太郎(1864~1947)は、長州説を重視した学者の一人である。彼は、近松の作品「国性爺後日合戦」の一節に「柳が浦のいと長く、何處に露をくりためて、所も萩の唐錦、故郷の空に翻す快の色…」をとり上げ、自分の出身地長州藩を想い、藩府萩に対する郷愁の念をこの一文に託したのではないかといっている。

 また、藤井乙男(1868~1945)という学者も、長州説に重大な関心をもち、山口県吉敷郡で近松伝説にかかわりのある松村家のことを調査している。しかし、手がかりはなかったようである。

 大正15年発行の「大日本人名辞書」によると「近松門左衛門は承応2年長門大津郡深川に生まれ、通称平馬、幼名を彦四郎とよんでいた云々」と書かれている。ここで近松長州説、とりわけ深川説は確実に定説化したものと考えられた。深川では、大正10年ごろ劇場を建てて近松座と命名し、当時作家であり評論家でもあった横山健堂(明治期の初代大津部長・横山幾太の長男)がこれを看板に筆書した。「近松せんぺい」が売られたのもこの頃である。

 ところで、大正14年、京都府相楽郡山城の篤志家、田辺密蔵の『近松門左衛門の所出について』の研究が公表された。田辺家と杉森家が以前親類関係にあり、杉森家系譜の写しが、田辺家に仕えた杉森信義の子供が杉森信盛(近松)であるという、いわゆる越前説を、親類書や家系譜などによって立証したというのである。このことは更に昭和4年、木谷蓬吟が「近松門左衛門の系譜に就いて」を発表し、一段と研究が深められた。以後、越前説の内容は説得力を持つようになり、当時、文学会の重鎮といわれた水谷不到(1858~1943)をはじめ、越前説を主張する学者たちを大いに勇気づけたことはいうまでもない。長州説を重視していた学者たちも、次第に越前説に傾いていったものと思われる。

 山口県内では、これに対抗する意図があったかどうかわからないが、下関市在住の作家、吉村藤舟(1884~1942)が近松研究にのり出した。彼は本名を岩吉といい、青年時代島崎藤村の門下生となり、藤村から藤舟という号をもらったといわれている。その彼が昭和五年、「近松門左衛門」という小冊子を発刊して長州説を力説した。この本は発行部数も少なく現在なかなかお目にかかれない。いまやまぼろしの本となっている。この本は、山口県内の近松研究者に大きな影響をあたえた。

 大津郡深川町(長門市)では、昭和8年、篤志家たちが協力して赤崎神社境内に「巣林子近松翁之碑」を建立している。この碑文は、村田峯次郎の筆になるものである。峯次郎は、村田清風の孫にあたる。清風は、幕末、長州藩の財政たて直しに力を尽くした人物として知られる。また、近松誕生ゆかりの地を推定して記念碑の建立もしている。

 その後、深川の郷土史家、山崎徳三郎翁(1875~1967)は、県内の関係地をくまなく調査し、さらに、唐津の近松寺、尼崎の広済寺、大阪の法妙寺などに出向いて徹底した研究をされている。

 昭和33年、大阪大学の森修教授(1914~1987)が「杉森家系譜の研究」を発表されてから越前説はいよいよ定説化した。杉森信籔と信盛(近松)が父子関係というのが越前説の決め手である。しかし、山口県の研究者の中には、この父子関係を疑問視する考えも早くからあったようである。

 豊田町では、西山の郷土史家、藤井善門翁(1900~1975)が、同地の神上寺の寺侍であった木川家に古くからある近松伝承を研究し、その論文を昭和39年8月、早稲田大学の河竹繁俊教授におくられている。同教授は「藤井善門氏の調査による原稿はひとつの資料として識者に推せんします。近松門左衛門の伝記はかなり研究されたが、20歳以前のところは唯今のところ明白でありません。藤井氏の研究はその盲点をついた形です。これで全部とか十分とかいうわけにはまいりますまいが、ともかくもひとつの資料として尊重する価値があるかと思います。切に識者の参考に資したいと思います」と、述べられている。

 藤井翁の推論によると、杉森信義を父とし、信盛(近松)を子とする父子関係は、真の父子関係ではなく擬制されたものである。つまり、長州出身の信盛が、杉森信義の家族と親しい間柄となり、事実上信義の家族の者と同様の付き合いをしたのであろうとされる。深川の山崎翁もこの考え方を前提として長州説を強く主張されたのである。同じころ、山口女子大講師であった山中六彦氏(1888~1979)も近松長州説を「朝日新聞」紙上に連載されている。

 このような考え方は、定説化した越前説に抗した荒唐無稽なこじつけ論として一笑にふされるかもしれない。しかし、越前説を検討してみると、こじつけ論とぱかりはいいきれないものがある。筆者は、過日(平成6年2月)越前杉森氏のゆかりの地、福井県鯖江市と、近松を葬ったとされる広済寺のある兵庫県尼崎市を訪れ、当地の研究者たちといろいろ話す機会を得た。また、沢山の史料もいただき、不勉強であった越前説についてより深く理解が得られ、大変ありがたく感謝している。それでは、越前説とは、どういうものか、次にその大要を述べてみよう。

 

4、定説化した越前説

(1)越前説とは

 近松の本名が杉森信廠であることは、彼自身が書き残していることでもあるし、疑う余地はない。しかし、彼の出身地については、彼自身が明かしていないので不明である。それだけにさまざまな憶測を呼んだ。具体的な場所は十指を超えている。

 太田南畝が幕府の役人として活躍していた時代、すでに有力視されていた長州説と並び、京都または越前説も有力視されていたとみてよかろう。

 京都または越前というのはこうである。京都相楽郡山城の地に、江戸時代初期のころから杉森氏と名のる武士が住んでいた。その分家筋に当たる杉森氏が、越前藩主・松平忠昌に仕え、寛文年間にまた京都に移住した、という事実があるからである。その分家筋の杉森氏が越前にいたころ、生まれたのが杉森信盛(近松)であるとするのが、いわゆる越前説なのである。この越前説が大きな説得力を持ち、定説化していった理由の核心的な部分は、つぎのようなことである。

 寛文11年(1671)、国学者で俳人の山岡元隣が発刊した「宝蔵」という俳文集の追加発句の部に、杉森姓を名のる者が5人ほど散見される。杉森信親一句、杉森信義五句、杉森信盛一句、杉森五郎助(信秀)一句、杉森喜利一句、などである。ちなみに信盛の句は、「しら(白)雲やはな(花)なき山の恥かくし」であり、この時信盛は、19歳であったといわれている。また、五郎助は11歳と書かれている。ところで、これらの人々が相互にどのような関係にあったのか、これだけでは不明である。ところが、杉森信義という人物の素性がわかったのである。前述した森教授の「杉森家系譜の研究」がこれを明らかにした。

 それでは、杉森氏の親類書など古記録をもとにつくられた家系譜の要点を示して、同教授の解説を要約してみよう。杉森氏は戦国時代、公家三条家より分かれて武士化した実次を始祖としている。杉森氏を名のったのは、杉森信次の時からである。四代信幸の時、彼の弟信義が分家した。信義は、越前藩主・松平忠昌に児小姓として仕え、長じて藩医岡本為竹(一抱子)の娘を妻とした。彼は家禄300石をとる身分となり、何人かの足軽をかかえるほどになった。

 忠昌の子音晶(後、昌親と改名)が、吉江藩をつくった時これに従ったが、故あって禄を捨て京都に出た。この信義が越前にいたときに生まれた子供たちが智義以下5人である。俳文集「宝蔵」に出ている信親は、信義の祖父であり、五郎助は五郎吉のことである。喜利は借銭の妻といわれている。信盛の名は、この系図に出てこないが、次郎吉が信盛と推定されている。これらのことは承応2年(1653)、四代当主、信幸が、宗門改役に提出した親類書や、寛文4年(1664)、五代当主信明が提出した親類書の写しなどからわかったものである。この親類書のことに少し触れておこう。

 江戸幕府は、寛永12年(1635)、キリスト教を禁止するため鎖国令を出した。以後一人一人の信仰を調査するため、どの藩にも宗門改役がおかれた。どこの家でも一家の当主が、家族の一覧を書き信仰の状況を宗門改役に提出しなければならなかった。士農工商いずれに属していても同じであった。なおこの場合、本家筋は分家の者を合わせて提出する義務があったらしい。信義一家が京都に出たのは、寛文8年前後のころとされている。この時、長男智義は、織田長頼に仕官がきまり、3男伊恒は織田氏の侍医、平井自安の養子となっている。4男権四郎や五郎吉は早死したらしい。問題は次郎吉である。杉森家系に関する古記録の中には、信盛という名前は出てこない。幕末から明治にかけて調整された杉森系図には出てくるが、これは論外である。森教授は、この次郎吉こそ信盛であると推定されている。

 したがって、これが後の近松門左衛門ということになる。近松は、享保9年(1724)に、72歳で没しているから、逆算すれば承応2年(1653)に生まれたことになる。故に、次郎吉は、この年に生まれたと推定されるのである。以上がその大要であるが、これには疑問視される点が2、3ある。

(2)疑問点

その1

杉森親類書など古記録に信盛という名前が出てこないのはなぜか

 これについては、次郎吉が信盛と推定されているが、彼の兄は智義、弟は伊垣という成人名がついている。どうして次男の次郎吉に成人名がないのであろうか。少々不自然なものを感じる。杉森家10代信勝と、11代信忠の時、調整された家系譜には、次郎吉のところに信盛の名前が書きこまれているが、前述したように、これには史料的価値がないのは当然である。なぜなら、これは幕末から明治にかけてつくられたからである。寛文4年の時点で弟の金三郎には、伊垣という成人名があるのに、兄の次郎吉には成人名がないということは、次郎吉は早く死んだのではあるまいか、気になるところである。

その2

弟といわれる伊垣という人物についてもはっきりしないものがある

 伊恒は、織田長頼の侍医、平井目安の養子となり、要安と号している。森教授によれば、岡本とは関係がないとのことであるが、龍谷大学の土井教授によれば、この平井要安が、後に岡木家を継ぎ岡本為竹(一抱子)を名のったとされている。このほか、まだ岡本一抱子を名のる人物が別にいたともいわれている。

その3

信盛(近松)の母の法号が、二つあるのはどうしたわけか

 杉森信義(信盛の父)一家の墓所は京都の日蓮宗本圀寺にある。父の法号は、智妙院道喜日観(信士)、母は、芳浄院妙閑日桂(信女)である。ところが、尼崎の日蓮宗広済寺にも母の法号があり、智法院貞松日喜(信女)となっている。しかし、広済寺には母の墓石がない。2つの法号があるということは、父信義の前妻、後妻ということも考えられるが、もしそうであれぱいずれも本圀寺の墓地に葬るのが当然のように思われる。

 広済寺は享保元年(1716)日蓮宗の寺として建立された。この時、近松は開山講中の一員であったことから、母の菩提を弔うため法華経28品と和歌2巻を奉納している。墓石がないということは、ことさら謎を深めることにもなる。このことは、案外、少年時代生別した母親のことを偲んだものかもしれない。もしそうだとすれば、広済寺にある法号こそ、近松の実母のものではなかろうか。

 

5、長州説は消えず

(1)信盛(近松)は長州の人?

 前にも述べたように長府藩では、かなり前から近松伝承があった。長府藩(萩本藩に対する支藩)の家老椙杜広品が、元服前に女中に生ませた子がやがてお寺に入れられ、ついに京都にのぼり浄瑠璃作家になったというのである。この話は、椙杜氏の知行地である浮石地区(豊田町)では、近松の在世中からあったというが、このことはすでに述べた。

 それでは、長州から上京した一青年が近松だとすれば、越前から京都へ移住した杉森信義との出会いがなければならない。前述の郷土史家の中には、このような考えを持つ人もあった。もし、長州の一青年が上京しだとすれば、その時期は俳文集「宝蔵」の発行された寛文11年(1671)よりも以前でなけれぱならないことになる。そのころ、杉森信義は、京都にあって俳句をたしなみながら妻子と暮していたはずである。しかもその生活には、ゆとりもあったと考えられるが、それは、医者を開業していたかも知れない(家禄を失った武士がよく医者となっていた)。あるいは、越前藩の京都邸に何らかのかかわりを持てば、生活はできたであろう。越前藩の京都邸は、現在の上京区にあり、長州藩の京都邸は中京区にあった。つまり、両京都邸は、呼へば応えるほどの近さである。そのころ、越前藩主の松平氏と、長州藩主の毛利氏とは、二重の縁組によって親戚関係となっていた。

 長州の初代藩主・毛利秀就の正室は越前の初代藩主・松平秀康の娘喜佐姫であり、つづいて長州の2代藩主・綱広の正室は越前3代藩主・松平忠昌の娘千姫である。このため毛利氏は、越前松平の御一門といわれ、さらに綱広は、松平大膳太夫という官途名を幕府からもらっている。このような事情から両藩の家臣同士が、お互いに特別な親近感を持ち、往来もたびたびあったことであろう。こうして杉森信義と、長州の一青年とが、俳句の世界で親密なふれあいを持つようになったと考えることもできる。孤独な一青年が、杉森信義と父子関係同様なつき合いを始めることもありそうなことである。三条家の流れをくむ杉森氏の人ということであれば、将来の運命が大きく開けることにもなろう。

 このように考えると、前に述べた越前説も解消されるのではなかろうか。たとえば、前述の杉森親類書などに信盛という名前が出てこないのは、もともとこの人物がいなかったからであろう。次郎吉を信盛(近松)と決めつけているところに、問題があると思う。この次郎吉には不明な点が多いが、成人名のないところから、意外に早く死んだのかもしれない。また、そうでないにしても彼こそが母の実家である岡本為竹(一抱子)の2代目を継いだ人物ではなかろうか。

 土井教授の「岡本一抱子年譜」によれば、岡本家の2代目は明暦2年(1656)半井仲庵の子、黙真瑞宝が継いだとされているが、これは岡本氏関係の古記録によったものであり、それは必ずしも信頼性の高いものとはいえないらしい。このように考えれば、次郎吉は承応2年よりもかなり以前に生まれたとみることもできる。また、近松の母親に2つの法号があることは前にも述べた。広済寺の過去帳にある法号・智法院貞松日喜こそが、近松の実母のものとするのが当然であろう。しかし、墓石がないということは、前述したように少年時代長州で母と生別または死別していたからではあるまいか。近松の母をおもう一念で、この法号がつけられたとみることもできる。

 宝永5年(1708)、南水漫遊の美人画に近松が賛を書いている。それには「椙森信盛」と書いているが、杉を椙と書いている。このような書き方は、単なる気まぐれだけではあるまい、信義の家族の一員になったとしても、長州の椙杜という意識がある限り、このような書き方が、たびたびなされたのではあるまいか。また、「庭前八景」という近松の随筆がある。その中で彼は「われ田舎育ちの身なれども都に住めば・・・」と書いた一節がある。この田舎とは、遠い故郷長州藩をさすのではあるまいか。人は、だれでも遠地にあって故郷を思う心情は昔も今も変わりはない。

 近松の作品「生玉心中」に「萩焼の大皿出し」という言葉がでてくる。これは、近松が萩焼の皿に郷愁の念を抱いたからであろうと考えることもできる。また、前にも述べた塚越芳太郎が「国性爺後日合戦」の一節「柳が浦の糸ながく・・・」に、近松の故郷想う心ありとされたこともうなずけるような気がする。享保9年(1724)、近松は死に臨んで辞世文を書いている。

 その中で「市井に漂て商売しらず隠に似て隠にあらず、賢に似て賢ならず、ものしりに似て何もしらず世のまがひもの・・・」と自嘲しているが、まがひものとは似て非なるもの、つまり、偽物という意味である。椙杜の人間が、杉森の一員となったことの意味もこの中に含めているのではあるまいか。以上のような考えを「入籍説」または「養子説」と仮称しておこう。

 それでは、信盛を長州の人とすれば、生まれは具体的にどこであろうか。その場所が問題となる。萩、深川、豊田、内日、吉敷などの説がある。

 

(2)深川説について

 最初に、椙杜氏の家系について説明しておこう。

 建久3年(1192)、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、政所、侍所のほか、問注所という裁判所のような役所をおいた。この時、頼朝は京都から三善康信という学者を呼んで問注所の長官にあてた。以後代々、三善氏は長官を歴任した。やがて太田姓を名のり、鎌倉幕府滅亡後は、周防国玖珂郡の椙杜郷に土着し、椙杜氏と名のった。そうしてこの地の蓮華山に城を築き、大内氏の家臣になった。大内氏滅亡後は毛利元就に従った。この時、椙杜隆康は毛利氏の重臣、志道元保の子、元禄を養子にむかえた。慶長5年(1600)、関ケ原の戦い後、椙杜元禄は、長府始祖、毛利秀元の重臣となり、長府藩の筆頭家老として活躍することになった。元禄の長子は就幸で、母は側室、西氏の娘であった。次男は元周で、母は正室隆康の娘であった。

 ここで、椙杜氏の家系譜をもとに深川との関連を述べてみよう。系図に示した広仲と広品は寛永17年(1640)、元周の双生児として生まれたらしい。椙杜氏は3,500石の家禄を持つ筆頭家老であったから、少なくとも50人前後の陪臣を抱えていたであろう。そうした中で、家督をめぐるお家騒動もおこったといわれる。加えて双生児を嫌う風潮もあったという。そこで弟、広品は、知行地三島の下屋敷で育てられることになった。守役世話役の女中が付けられ、その後も内日などに移ったりして隠れ育てられたという。最後には、大津郡深川江良の地で隠れ育てられたというのである。ここは、萩本藩の直轄地(蔵入地)であったから、秘密の場所としては最適地であったろう。山崎翁によれば、その仲介役となったのは同じ深川の一部を知行地とする宍戸氏であったということである。羽仁雅助氏もこの考えであった。しかし、仲介者役はむしろ志道就幸とする方が説得力あるように思う。系図でみるように、就幸は広品らの伯父であり萩本藩の家老職を務めていたからである。

 さて、深川に来た元服前の広品は、才気に満ちた若者となり、女中はその広品によって身重となった。その女中は長府藩の保護寺である神上寺(豊田町)に移され、ここでは、寺侍の木川氏が世話をしたという。豊田町の伝説ではその女中は木川家のもとで男児を出産したということになっているが、深川や内日ではそれぞれの地で生んだということになっている。この男子はやがて母親と別れて、観音崎(下関)の永福寺(臨済宗)に沙弥として入り、後に唐津近松寺に行き、やがて上京したということになっている。男子を出産した女性は、萩の人、深川の人、内日の人、吉敷の人などがあるが、これについては以前、山崎翁と、豊田の藤井翁の手紙のやりとりがなされ、最近、山崎翁の遺稿の中から藤井翁の意見を書いた手紙が見つかっている。それによると、広品の世話係であった女中は、深川の人であるかも知れないという内容であった。また別に、吉敷毛利の重臣、松村氏の娘が、.世話役であったという説もある。

 同じ深川説でも別の考えもある。長門市俵山の郷土史家であった宮野薫氏(1915~94)の説である。この説によると、近松は広品の子ではなく椙杜就幸の子とするのである。椙杜就幸は、長府藩家老・椙杜元禄の子である。就幸は萩本藩の家臣、志道氏を継いだが、のち、椙杜姓を名のった。彼は寛永2年(1614)、初代藩主・秀就から美祢郡於福の地(945石)をもらっている。以後、萩と於福の間を往来するとき必ず深川江良を通行することになる。その関係からか、宮野氏は、江良の地の管理には就幸が何らかのかかわりを持っていたといわれ、それなりの居宅もあったと説明されている。就幸と志道の家女との間には、天樹院の僧となった慈英がいるが、ほかに近松に該当する子もいたはずである。しかし、近松が戯作者となったので、当時これをいやしむ風潮から、系図に入れなかったというのである。なお、就幸と家女との出会いの場が、実は深川だったと説明されている。これは同氏の著「近松故郷に帰る」の筋書を要約したものである。

 以上が2つの深川説であるが、これに対し近松伝承の深川の地は何の関係もないとする考えもある。

 吉村藤舟はその著者「近松門左衛門」の中で「深川の地は近松誕生伝説と無関係である」と、述べている。その理由は「大津郡深川の江良地区が、椙杜氏の知行地となったのは、宝永4年(1707)以後のことである。この年はすでに近松が64歳となり、大阪で盛んに活躍していた時でもある。したがって、深川の地は近松誕生に関係のないことは当然のことである」としている。

 こうした主張は、現在でも一部でなされている。史実としては、宝永四年、長府支藩の毛利吉元が、萩本藩の家督を継ぎ萩入りするわけであるが、この時、椙森広品の弟である広周が、吉元の部屋付きとして萩に移住した。この広周が深川の江良330石余、吉敷郡鋳銭司170石余、別に浮米五百石、計1,000石余を家禄としてもらっている。これ以後、この椙杜氏は、長府の椙杜氏の分家として、深川江良の地に居館を持つことになる。以後、明治時代まで続くのである。このことから、分家筋の椙杜氏が近松誕生はなしに関係のないことは、藤舟が指摘するまでもなく当然のことである。近松誕生はなしに出てくる時期は承応年間(1650年代)のことであり、宝永4年(1707)から50数年以前のことなのである。

 ところで、享保15年(1730)、本家の長府椙杜氏は、元位の代でお家断絶となっている。そのため、長州藩の椙杜氏といえば、萩本藩に仕える分家の椙杜氏、つまり、深川の椙杜氏だけを指すようになったのである。このようなことから、.両椙杜が混同されたり、とり違えなどがあり、時代の前後関係を無視して近松伝承と分家の椙杜氏を結びつけたものであろう。深川の近松伝承については、くれぐれも時代のとりちがえがなされないよう注意したいものである。

 

6、むすび

 近松門左衛門の出生地に関する長州説と、越前説についていろいろ述べてきた。越前の杉森系図には、信盛(近松)と推定される人物、つまり、次郎吉が出てくる。長州の椙杜系図では、信盛と推定される人物は出てこない。結局、信盛という名前の有無という点からみると、両系図とも、無いということになる。なお、越前の杉森系図で幕末から明治にかけて加筆されたものがあり、この中に信盛や近松門左衛門の名前が出てきても、史料的価値がないのは当然である。このことは、すでに述べた。つまり、両説とも謎の部分の存在を否定することはできないのである。出生地に関する史料は、今後も明確なものは出てこないであろう。ここに、両説を結びつけるロマンが広がっていくのである。京都や越前(福井県)では、近松に関する民間伝承は全くないそうである。これに対し、長州(山口県)では、相当古くから近松伝承のあったことはすでに述べたとおりである。

 ここに面白い例がある。山口県美祢郡美東町の長登というところでは、昔、銅鑛を採掘し、その銅を奈良に運び東大寺の大仏建立に使ったといわれる。そのためここの銅が、奈良に登ったというところから「奈良登り」といわれるようになり、やがて、それが「長登り」となったという民間伝承が大昔からあったという。この民間伝承は、最近まで一笑に付されていた。ところが、数年前、東大寺で長門国の銅に関する木簡が発掘され、長登にも科学のメスが入れられた。その結果、年代まで書かれた奈良時代の木簡がぞくぞく出土した。大量の銅が奈良に送られたことが、これで立証されたのである。この例が示すように、民間伝承といえどもそこには何らかの史実が隠されていることを考えてみなければならない。

 越前説を正論とする学者の一人である早稲田大学の鳥越文蔵先生は、山口県の近松伝承についてはよく理解しておられ「なかなか風格のあるこの伝承はこれからも長く持ちつづけてほしい」という趣眉のことを、その著「近松門左衛門」の中で、述べられている。長州では、近松門左衛門出生の地と伝えられる深川、豊田、内口などの伝承地があることはすでに述べたとおりである。これらの伝承地は、近松出生伝説ゆかりの地として今後も長く人々の心に生きつづけるものと思う。

 長門市(※旧長門市)では、市制40周年記念で、このたび(平成6年)この地に伝わる近松伝承をとり上げた。これは最初に述べたとおり決して行政サイドで長州説、なかんずく深川説を強調しようとしたものではない、ふるさと長門に近松伝承のロマンを語り合うところに意義があるのである。それがまた、豊かな郷土愛の心を育てる一助にもなるのではあるまいか。そうしてそれがさらに多くの人々に「近松伝承のまち、長門市」を知ってもらう機縁ともなるであろう。