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楊貴妃伝説

<外部リンク> 印刷用ページを表示する 掲載日:2015年11月1日更新

油谷に残る「楊貴妃伝説」  油谷の向津具(むかつく)の二尊院というお寺に2冊の古文書が残されています。これは今から約230年前(1766年)当時の二尊院福林坊55世住職恵学和尚が、この地に伝わる話を古老から聞き取り書きとめたものです。

楊貴妃像
▲楊貴妃の里に建立されている「楊貴妃像」

 

唐渡口に漂着した楊貴妃

日本で云えば奈良朝の昔、唐の国では天宝15年(756年)7月のことじゃったげな。向津具半島の岬の西側に唐渡口(とうどぐち)ちゅう所があってな、そこへ空艫舟(うつろぶね)が流れ着いたげな。 舟の中にはな、長い漂流でやつれておられたが、たいそう気品のおありなさる、それはそれは美しい女人が横たわっておられたそうな。
お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の愛妃楊貴妃と申される。安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びないで近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに云うたそうな。

唐渡口に漂着した楊貴妃イラスト

 

 

楊貴妃の墓

息も絶え絶えの楊貴妃を里人たちは手厚く看護しましたがの、そのかいものう間もなく息を引き取られたげな。そこで里人たちは、西の海が見える久津の丘の上にねんごろに葬ったそうな。それが今、二尊院の境内にある楊貴妃の墓と伝えられておる五輪の塔でのう。
いつとなく「楊貴妃の墓に参ると願い事が成就する」というのでの、多くの人が参詣するようになったと申しますいの。

楊貴妃の墓イラスト

 

楊貴妃の墓

▲伝説「楊貴妃の墓」

 

 

阿弥陀如来と釈迦如来

 一方、玄宗皇帝は楊貴妃への恋慕(れんぼ)の情断ち難く、悶々(もんもん)として悲しみの日々を過ごしていましたが、ある夜不思議な夢を見ました。
「私は日本に流れ着きました。土地の人々から優しくしてもらいましたが私の体は弱り切っており、とうとうこの世の者ではなくなりました。天上と人間界とに別れてはいても、いつの日かきっとお会い出来る時が参りましょう。」
夢の中の楊貴妃の言葉に、玄宗皇帝は白馬将軍陳安(ちんあん)を日本へ遣(つか)わし、楊貴妃の霊を弔(とむ)ろうために秘蔵の霊仏阿弥陀如来(あみだにょらい)と釈迦如来(しゃかにょらい)の2体の仏様と十三重(じゅうさんじゅう)の大宝塔を持たせました。
日本についた陳安は、楊貴妃の漂流地を探し歩きましたが、何処の浜か、何処の浦かどうしても分からないので京都の清涼(せいりょう)寺へ預け帰国いたしました。

 

玄宗皇帝イラスト

 

 

二尊院

 やがて清涼寺には、この預けられた仏様を拝みにお参りする人々が日増しに多くなりました。そうこうするうち、朝廷は楊貴妃の墓が長門の国、久津の天請寺(てんしょうじ)にあることを知り、二尊仏を移すように命じました。
ところが清涼寺では霊験あらたかな仏様を手放したくないので、このまま京都に置いておくように朝廷に嘆願いたしました。
困った朝廷では仏工の名手、天照春日(あまてらすかすが)に命じ、そっくりの2体の仏様を造らせました。
 そして1体ずつを2つの寺で分け合って安置させたということです。阿弥陀如来と釈迦如来を本尊としたので「二尊院と名乗り、天下太平・五穀豊饒(ごこくほうじょう)の祈願怠りなく奉るべし。」との勅命(ちょくめい)を賜ったと申します。

二尊仏イラスト