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北長門海岸国定公園の中心に位置する青海島は、周囲約40kmで、別名『海上アルプス』と称され、大自然が削り上げた洞門や断崖絶壁・石柱など数多くの奇岩・怪岩などの芸術作品が多く、まさにスケールの大きい自然美術館と言えます。
そんな青海島の景色を、陸上からは青海島自然研究路を散策しながら、海上からは青海島観光遊覧船に乗って楽しむことができます。
青海島は、スキューバダイビングの良質なスポットとしても人気があり、その人気は口コミで広がり、今では県内外から多くのダイバーが訪れるまでになりました。青海島特有の地形や希少な浮遊系生物などを見ることができます。
また、日本を代表する日本画家・東山魁夷画伯は、昭和43年に完成した皇居宮殿・長和殿波の間に青海島の風景をモデルにしたといわれる縦約3.8メートル、横約14.3メートルの大壁画を制作しました。「朝明けの潮」と名付けられたその絵は、青海島の瀬叢(せむら)がモチーフになっており、画伯はこの絵の制作にあたり、日本の海のイメージを求めて1年間をかけて全国の海を回ったそうです。
その2年後の昭和46年から奈良唐招提寺にある襖絵「濤声」の制作を始めましたが、日本の海の集大成だといわれるその絵にも青海島の風景が見られます。
画伯にとって、日本の海のイメージは、青海島であったのかもしれません。
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果てしなく広がる海と空の一大パノラマが展開し、海をわたる爽やかな風が、波のざわめきを伝えます標高333mの高台に広がる草原の地、千畳敷。
眼下には日本海に浮かぶ島々、果てしなく広がる海と空の一大パノラマが展開し、海をわたる爽やかな風が、波のざわめきを伝えます。
高台には、ハマユウ、ツツジ、ツバキ、サザンカなどが植えられており、四季折々の花が高原の一角を染め、訪れた人々の心をとらえます。
夏の夜には、日本海に浮かぶ漁火が望め、人里離れた自然を満喫できる最適の場です。絶景を眺めるキャンプ場としても人気があります。
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元乃隅稲成神社は昭和30年に地域の網元であった岡村斉(おかむらひとし)さんの枕元に白狐が現れ、「これまで漁をしてこられたのは誰のおかげか。」と過去からの関わりを詳細に述べた後、「吾をこの地に鎮祭せよ。」というお告げがあったことにより、島根県津和野町太鼓谷稲成神社から分霊された神社です。
商売繁盛、大漁、海上安全は元より、良縁、子宝、開運厄除、福徳円満、交通安全、学業成就、願望成就の大神です。「稲荷」神社は全国で四万社ほどありますが、「稲成」神社は二社のみです。
昭和62年から10年間かけて奉納された123基の鳥居が、龍宮の潮吹側から100m以上にわたって並ぶ景色は圧巻です。参道出口に建つ大鳥居をよく見ると・・・なんと賽銭箱が頭上に!見事、賽銭を投げあげると願いが叶うと言われています。
また、アメリカのニュース専門放送局・CNNが3月30日にウェブ上で発表した「Japan’s 31 most beautiful places “日本の最も美しい場所31選” 」に長門市の『元乃隅稲成神社』が選ばれました。
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「棚田」とは急傾斜地に階段状に造成された水田のことです。 中山間地域が県土の7割を占める山口県でも多くの棚田が形成されています。 長門市油谷もそうした棚田が多い地域で、本州最西北端の向津具半島を中心に約700haもの一大棚田地帯が広がっております。
1999年に農水省が発表した「日本の棚田百選」では、当時全国117市町村、134地区の棚田とならんで油谷の東後畑地区にある棚田が選ばれました。 棚田は通常山間部にあることが多いのですが、この地区は半島部分の丘陵地が海岸近くまで迫っているため、眼下に日本海を望むことができます。
夕日が沈む日本海に、イカ釣り漁船の漁火が無数に輝く光景は美しく、この景色をカメラに収めようと、毎年多くのカメラマンたちがこの地を訪れます。
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山口県産オリジナル地鶏「黒柏鶏」を元に、地域の特色を出し、肉用鶏として経済性・食味の良さにこだわり誕生した山口県産の地鶏が長州黒かしわです。
黒かしわの胸肉やささみには、疲れやすい脳や筋肉の疲労回復を助ける機能成分イミダペプチドが多く含まれています。
適度な歯ごたえを残しながらも柔らかく、かめばかむほど味が出てきますので、シンプルな炭火焼きや鍋料理はもちろんのこと、一手間加えた料理でも長州黒かしわ本来の味を充分堪能できます。
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「長州ながと和牛」とは、山口県長門市に住所を有するもの及び所在地を有する法人(以下「生産者」という)が長門市内で肥育した牛であって、長門大津農業協同組合を経由して販売されたものの内、次の各項目に該当する牛肉をいいます。
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世界には約450種類のイカが存在すると言われています。これほどまでにイカを食す人種がいるのだろうかと思われるほど、イカを食す日本人。我々の食卓に欠かせない食材の一つでもあるイカ。そんな中、味もさることながら、その透き通った体で、優雅に泳ぐ様子などを形容し『イカの女王』と呼ばれるイカがいます。
九州北西沿岸域から日本海西南海域にかけて多く生息する「ケンサキイカ」です。山口県沿岸はその地形上から、大陸棚が急角度で落ち込み、激しい潮流が発生します。そこで育つケンサキイカの多くは、身が引き締まり、甘みが強いと全国的にも高い評価を得ています。
女王の名にふさわしい、透明な体は他のイカでは到底叶わないものであり、活け造りにした際の美しさは言うまでもありません。
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東の「小田原」に対し西の「仙崎」として、その名をとどろかせる「仙崎かまぼこ」。その歴史は古く、貞享年間に長州藩主毛利吉元公へ魚肉をすりつぶしガマの穂状にして焼いたものを献上したことがはじまりとされ、その後、この「仙崎かまぼこ」を珍重した毛利公は、5代将軍綱吉公をはじめとする諸大名にお国土産として自慢したと伝えられています。
それから100年以上、この地域の人々は、長い年月の中で仙崎港という全国屈指の良港を有する町で生まれた食文化の“カタチ”として創りあげ、長い年月の中で極められた「技」と「味」を受け継いできました。
鮮度が命と言われる焼き抜きかまぼこ。その日、仙崎港で水揚げされた新鮮な「エソ」は、「匠」ともいえる職人の手によって最高の一品へと姿を変えます。
全国的には、練られた材料を蒸して仕上げる製法である「蒸しかまぼこ」が多い中で、仙崎かまぼこは「焼き抜き」という製法にこだわってきました。エソのすり身を杉の板でできたかまぼこ板に盛り付け、焼きとおして作られる「焼き抜きかまぼこ」。製造される工場では、焼き上がるかまぼこのほのかに甘い香りが立ち込めます。
「焼き抜きかまぼこ」は、焼き上がった時にできる独特のちりめんじわが特徴で、食感はやわらかさのある蒸しかまぼこに対して、しっかりとした歯ごたえがあります。噛めば噛むほど、プリプリとした食感の中から、昔からの変わることのないかまぼこ本来の旨味が染み出てきます。
その昔は、炭火で焼きあげるのが一般的でしたが、現在では、徹底した温度管理のもと、赤外線による製造が行われています。
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北浦とよばれる沿岸地域は、古くから捕鯨が行われていました。江戸時代に全盛を向かえ、近代捕鯨が始まる明治の終わりに、その歴史を閉じました。
くじら資料館には、古式捕鯨と漁民の歴史を伝える品々を展示しています。 鯨と共に生きた漁師の写真や古式捕鯨の道具、鯨唄に使われた太鼓など貴重な資料が鯨との深い絆を感じさせます。
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みすゞ生誕100年に当たる平成15年(2003年)4月、みすゞが幼少期を過ごした金子文英堂跡地に「金子みすゞ記念館」がオープンしました。
この記念館は、没後50余年を経て甦ったみすゞの足跡をたどり、その業績を顕彰する記念館であるとともに、地域の人々や全国から訪れるみすゞファンの文化活動・創作活動を支援するための交流拠点でもあります。
みすゞ通りに面したおもてに金子文英堂の建物や庭を復元し、その奥の本館棟は、遺稿集や着物などの遺品を展示した常設展示室、パソコンによる資料の検索室、みすゞの詩の世界を音と光で体感できるみすゞギャラリーなどを備え、みすゞの生涯や生きてきた時代を偲ぶことができます。
通にある大越の浜には日露戦争で犠牲となった常陸丸遭難者の墓碑とロシア兵の墓碑が並べて建立されています。
明治37年6月15日、日露戦争が始まり陸軍の御用船となった常陸丸は玄海灘沖でロシア軍艦の砲撃にあい、沈没。戦死者の遺体数体が通浦に漂着したため、住民の手で手厚く埋葬されました。
その翌年の明治38年5月27日、対馬沖で行われた日本海海戦でバルチック艦隊が沈没、乗船していたロシア兵士の遺体も同じように大越の浜に流れ着き、住民の手で埋葬されました。
通地区では今もなお、毎年6月に慰霊祭を行っています。
山口県長門市は人口1万人あたりの焼き鳥店舗数が日本トップクラスを誇る焼き鳥の街です。
店舗にはガーリックパウダーと一味・七味唐辛子が置いてあり、好みに応じて食べるのが長門流です。長門市のやきとりは、鶏の各部位、豚の三枚肉、野菜などを使ういわゆる“串焼きスタイル”ですが、他の地域と異なる特徴があります。
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